趣旨 |
現代社会が忘れかけている「日本人のこころ」を問い直すとともに、武士道精神の中軸である「惻隠のこころ」を学び、教育基本法改正にともなう道徳教育の推進及び武道振興に寄与する。 |
日時 |
平成21年11月1日(日)9:15〜12:20
受付9:00 開会行事9:15〜9:25 基調講演9:30〜11:05
パネルディスカッション11:15〜12:25 |
場所 |
宮崎県武道館(宮崎市大字熊野2206-1) |
主催 |
宮崎県公立武道館協議会、(財)宮崎県スポーツ施設協会、(財)日本武道館、全国都道府県立武道館協議会 |
後援 |
宮崎県教育委員会、(財)宮崎県体育協会、宮崎県市町村教育委員会連合会、宮崎県武道協議会、宮崎日日新聞社、NHK宮崎放送局、MRT宮崎放送、UMKテレビ宮崎 |
講師 |
基調講演 菅野覚明(東大大学院教授)
パネルディスカッションパネリスト菅野覚明、佐藤成明(筑波大名誉教授)、岩田勝彦(宮崎県警
本部柔道師範)、コーディネーター村田直樹(講道館図書資料部長) |
参加者 |
一般県民 80人 |
当日は、未明から降り出した雨で参加者の出足ももう一つであったが、それでも老若男女一様に参加し、通常敬遠される最前列の席から埋まっていったのが印象的であった。
定刻、9:15から始まった開会行事では宮崎県教育庁スポーツ指導センター安藤三紀夫副主幹が司会を務め、まず主催者を代表して堀之内会長が「宮崎にこれほどの先生が来られ、喜びに堪えない。行う趣旨は日本がこのままで言い訳が無いとの思いからである。戦後、紆余曲折を経てやっと武道が必修科目になるまでにこぎつけた。次は何を教えるかが問われてくる。日本の心の究極が惻隠の心である」と事業趣旨に触れ、大いに学んでと参会者を促した。
司会から出席者の略歴を紹介し開会行事を終え、休憩をはさんで、9:30より菅野覚明氏の講演が始まった。
基調講演
講師は、事前に配布した資料に沿って、「こころのふるさと」「惻隠の心」「武士道」「理想の武士と惻隠の心」「『やさしき武士』は何故最強の武士なのか」「結論」の6つの小テーマに分けて講演した。
現在日本で道徳を教えているのは、「道」の付く種目、柔道、剣道など武道のみで、広く言うと体育の先生、武道指導者だけが行い、彼らに任せている現状である。今日は、その武道が道徳とどう関わってくるのかその結びつきについて話す。
武道と道徳の「道」は同義である。武、つまり肉体面から追求していくものが武道、「徳」とは身に付いた結果の人柄をさす。
道徳と言っても究極は2つの原理に尽きる。1つは和合で仲良くすること、もう1つは礼節でけじめを付けること、これは万国の倫理観に共通に見られる。これを具体的に敷衍すると“男は強く優しく”、“女は優しく賢く”ということに尽き、共通項は「優しく」である。
こころのふるさと
日本の風景は山(海も空を介して山に連なる)が在り、家が在って、周囲を田畑が囲むというのが基本形。家とは身体で言うと魂であり文の領域、山とは正に身体であり武の領域で、その狭間で人が労働し経済活動を行い、その外は異界「あの世」となる。火を外で使用している時代は内・外の別が無く、故に心身の区別も無かった。やがて囲炉裏など火が家中に持ち込まれ、火(光)が家に灯るようになった。それは代々女が守ってきており、それが文―優しさ―もののあはれ―大和魂であり、惻隠の心としてまとめられるものである。
男は外で労働し、特に力のあり余る者は山中に入り、力比べを行った。元々農民であった者が、自己研鑽・鍛練を歓びとし、狩りの技術を原型にそれらに専門化していった集団が武士である。従って山中で神からの授かりものである鳥獣を獲り供物として神に奉納することこそ武士のハレ姿である。実に武術とは神の承認を得ることであり、武士はその意味で生産・経済活動でなく、精神・宗教活動を行っていたと言える。故に彼らは鉄砲の使用を嫌った。それは足軽のような軽輩や漁師のような鳥獣の捕獲を生業としている者が使うべきものだった。
「礼記」に「祭りに十倫あり」と書かれているように、同じく人智を超えたものとの関わりである祭礼(冠婚葬祭)には、人の生産経済活動の全てがある。例えば同じ食物を摂る平等性、席次に見られる秩序等々。神(人間を超えたもの)或いは自然(我々に不可欠な食物を授けてくれる)との関わりの中で我々が生かされていることを理解できるようになることがすなわち人としての成長の目的である。
惻隠の心
「惻隠」とは、「孟子」に出てくる四端の心、すなわち惻隠、羞悪、辞譲、是非の1つで、これらが大きく育つとそれぞれ仁、義、礼、智となる。惻隠の説明として孟子が挙げているのは、地面を這う乳児が井戸に落ちそうになっている光景を見た時人の心にきざす心情即ち放っておけない、見過ごせないという気持ちで、弱き者、小さき者に向かう心のことである。この忍びざる心をあらゆる人に及ぼせば仁者になれる。道徳の原理の1つである和合には、上下向かう方向の異なる2種の想いがある。自分より弱く、小さい下位の者へ向かう気持ちが「愛」、仁、思いやり、慈悲、惻隠とも呼ばれる。自分より強く、大きい上位の者へ向かう気持ちが「敬」と言われ、義、慎み、敬い、南無とも言われる。
現代の日本人における道徳の衰えとは実に肉体の衰え、弱化が原因であろう。人は強く、逞しいが故に道徳心(惻隠の心)を持つ。惻隠とは強者から弱者へ、優秀な者から劣った者へ、大人から子どもへ向う気持ちであるから、その心を持つ者は上位に居ることになり、万人に惻隠の心を持てる人物は万人の上に居ることになる。そこから武勇・強さを目指すことが意味を持ってくる。
武士道
武士は強さを追求する。武道、茶道など「道」の付く営為は全て現場を持ち、武士道の場合は戦場であり、その戦闘現場における強さに立脚する価値観のことである。武士の美意識の1つに“桜の花の潔さ”がある。それは満開の花ざかりの頂点で散るという時局を得た行動であり、咲ききる前なら愚か、咲ききった後なら見苦しく俗悪で、時機を得た動きを日本人は美しいと感じる。例えば中国人は濃厚な牡丹の花、西欧人は幾何学文様にそれぞれ美を感じるが、日本人はタイミングをとらえた行動(在り様)にそれを感じる。その時宜を心得て潔く切腹出来る、美を行動に現出できるところに強さが要求される。やたらに切腹する武士というイメージは、町人の目から見た姿である。「忠」も只管上位者に従うことと解されているが、本来これは共に戦うこと、味方になること、頼む(命を預ける)ことの謂いである。「頼もしい」とは「命を預けられる」という意味である。「義」も正しいと信じることのためにやたらに死ぬことと誤解されているが、戦いに見合った正しい報酬を得る、正しい交換が為されることをいうのである。武士は働きに叶った報いに拘り、過剰でも不足でも認めなかった。身に余る報酬、例えば主君に目をかけられた、などがあれば命を差し出すに至るのだ。義の反対語は利でありこれは商人の追求するもので、等価ではなく、少ない投資で大きな利を得ようとする。戦闘者である武士にとって、他人は敵か味方かどちらかでしかないから、自身に不利な情報例えば空腹などは外に表さない。「武士は食わねど…」の本義はそういうことである。「葉隠」には風邪で顔色が悪い時は、女から化粧用の紅を借りて差せという指示まである。常在戦場ということである。その究極が「葉隠」にいう「死狂い」である。自身の命も危うい極限状況で行われる勇士による孝こそ真の孝であろう。同書には、死者の顔の皮の剥ぎ方についての秘伝が記されている。これを敵の皮を剥ぐ意味にとり残酷だと思う者は正に“町人の目”で見ていることになる、これは負け戦において敵に勲功を与えず、味方(親)に屈辱を与えぬため、死体の一部でも持って帰ろうというギリギリ極限状況下の“親孝行”であるのだ。
また、強さが拮抗した中で頭一つでも抜きんでようと思った武士が身につける努力をしたのが、優しさ、もののあはれを知ること即ち「文」という徳である。
理想の武士と惻隠の心
今一般的に、“文武両道”とは勉強とスポーツの両方出来ることなどをさす。ペン(知恵)と剣(力)の両立を売り物にする学校もある。ここで言う「勉強」や「ペン」は数学や英語などの学問を指すが、それらは武勇を支える戦闘能力の1つで、寧ろ「武」にカテゴライズさるべきもの。このような学問(Wissenschaft)を「文」とするのは西洋の考え方で、日本の「文」は詩文、礼楽など道徳や芸術をいい、それらは公家文化の中で受け継がれて来ており、情緒、情操に関わり優しさや“あはれ”を知ることである。それは気配り、思いやりのことで、これらは芸術的・美的感性を育てることによって身に付く。論語にも「天下道あれば、則ち礼楽征伐、天子より出づ」とあり、ここに言う「征伐」が武、「礼楽」が文を指す。優しき武士、もののあはれを知る武士とは軟弱なひ弱な武士をいうのではなく、勇猛剛毅な武勇を誇りながら情操も豊かであるような武士を言う。
その例として、いにしえ勇猛を謳われ、子がその名を聞いただけで泣き出したと伝えられる八幡太郎義家が千載集に残した歌を見てみよう。
“吹く風を勿来の関と思へども道もせに散る山ざくらかな”
「勿来の関」とは東北にある蝦夷を防衛する最前線で、此処で激戦が行われ、義家も多くの部下を失った。表面の意味は、吹く風よ、来るな(な来そ)、道も狭しと山桜が散ってしまうではないかということだが、散る桜のように多くの部下が此処で斃れたという追悼の意味が込められている。あまりの武勇に恐れられた義家にしてこのように情感豊かな歌を詠むのである。
室鳩巣「駿台雑話」(巻末参照)にもこんな話がある。
小田原北条氏の家臣に佐野(現栃木県)の城主天徳寺という勇猛な武将がいた。或る時琵琶法師に平家を語らせ、佐々木高綱宇治川の先陣争いと那須与一扇の的のくだりを聞き、はらはらと落涙した。これらは勇ましい場面で、悲しい泣くようなところではないため訝しく思った家臣が理由を尋ねると、両方とも武勇の話だが、当人らは身命を賭し正に命懸けでそこに臨んだろう、その心情を思い“武士の道ほどあはれなるものはない”と悲壮さに泣けた、そこを判らぬとはお前たちはその場の血気にはやるだけで、真実から発する武勇ではなく、頼もしい(命を預けるに足る)とは言えないと答えたので家臣たちは言葉が無かった。天徳寺の勇猛さは涙より出ているので、彼は君子ではないが、仁に根差し、惻隠の心から発するのである。武は殺獲(殺人や盗み)の手荒い道だが、「仁より出ざるは真の武にあらず」と結論している。
『やさしき武士』は何故最強の武士なのか
涙より発する武勇、もののあはれを知る武士がなぜ強いのか。
強さの中でも最も強いことは、死を恐れぬこと。力の強弱より、生死を度外視する者が最も強い。「葉隠」にいう“武士道と云は、死ぬ事と見つけたり”の本当の意味は、死に生き甲斐を見たのではなく、生死を突き抜ける所に武士道の真骨頂を得たということである。自分にとって大事なもの生、家族、財産を諦める時、断念するものの大きさに比例して強さが発揮される。思う心が深いほどそれを諦めた時にその分、より強さが発揮される。「甲陽軍鑑」にも勇猛な者ほど涙もろいという記述が在る。強い者ほど優しく、優しい者ほど強いという表裏の関係こそ武士道の真髄である。
結論
強者は多くのものを愛し、大切にする。愛するにはそれだけの力も要求される。強さを蔑ろにする社会は、道徳を疎んじる社会である。これらは同義である。強さ、優しさを軽視する社会とは即ち道徳を軽視する社会のこと。強さは優しさである。
パネルディスカッション
講演会終了後、暫時休憩後11:15より、パネルディスカッションが始まった。
講演を終えたばかりの菅野先生にパネリスト2名が加わり、コーディネータの村田氏を含めた4名が正面に参会者と対面して座った。
冒頭、村田氏が参会者に謝辞を述べ、正面のパネリストだけでなく、聴取者と意見交換し、双方行き交う場としたいと抱負を語った。次に基調講演の要約をし、強さが肝要でありそれが対極の優しさと関連してくるというその結論を踏まえ、日々実技指導を行っている各パネリストにどのように強さを追求しているかを尋ねた。
佐藤:私が長く筑波大で教えて来たのは、コーチ学といい、競技力、試合で勝つ技術だけでなく、剣道の志向する内面、例えば邪念を捨てて一心に打っていく気持ちなども大切にしており、指導内容としては長く培われてきた基礎基本を中心に行っています。
岩田:私は、昭和49年大学卒業以来警察で指導してきました。警察では何より、悪人退治、正義実現のための強さを追求します。近年希望者が増え、今年も30人募集したところ400人以上の応募がありましたが、その中には体力面などで要件を満たさない者もおり、そのような者に己と向き合い、足りないものについて“気づき”を起こさせ自分に不足しているものを見出して解決させる、如何にそこまで持っていくかを念頭に指導しています。
村田:講演を聴いて強さの分だけ情も深い武士の究極を知り、また「武」も足偏に「戈」と書き山中で修業している男という猛々しい原義であると聞きましたが、現代に生きる私は普段の稽古を生命尊重、安全第一で行っています。時代の枠が違うのではありますが、大きな矛盾と思うので追求したいと思います。まず道徳心の衰えは何故、どこから来るかを各人にお訊きします。
菅野:道徳心が衰えているのか道徳が無くなっているのかは微妙ですが、心が在ってもそれを形にすることが教えられていない。道徳が無くなったら人間は悪魔になってしまう筈で、それは無い。皆善人だが、変な行為・行動に出てしまうのは、基本的な道徳の形を教わっていないからです。先に生命尊重、安全第一の武道でいいのかという疑義が出されましたが、実は江戸時代も生命尊重、安全第一で行っていたんです。だが安全に行える道具を使用して形が受け継がれ、伝えられてきた。幕末に実戦を行うことが出来たのもそのお蔭で、形が伝えられてきたからすぐ実践できたわけです。家の中で、お辞儀の仕方、靴の揃え方、箸の使い方などの形を教えることが大切。道徳心が在っても形が失われていることが憂うべきことで、決定的に間違いなのは学校で掃除をしなくなったことです。掃除を軽視しては駄目。掃除は礼法であり、重要な行事であり、祭も基本は掃除です。その行事を馬鹿にしないできちんとやる。そういう小さな形の積み重ねが無くなってしまったことが道徳の衰えに繋がった。教育内容は本などに書かれて残りますが、教え方は消えてしまい、取り戻すことは容易ではない。大体日常、人は大したことをやっている訳ではないのですから、方程式解くより箸の持ち方を学ぶ方がよほど大切なことでしょう。
村田:昨今、運動部の学生が起こす不祥事のニュースを聞きますが何故なのでしょうか。
佐藤:基調講演と重複するかもしれませんが、道徳の問題でも技術でも指導者が実践垂範する以外ない。或る武道では、実際にあるべき姿を言葉で語っていました。こういう人間になりましょうね、こういう事をしてはいけませんよ、弱い人を苛めません等々口頭で知識として与えることも重要ではないでしょうか。
村田:学生と共に多いのが警察官の不祥事ですが、何故なのでしょうか。
岩田:耳の痛い話ですが、社会現象としての人の縦横の繋がりの希薄さ、個人主義などのためもあるでしょう。規範や規則も暗記できるほど教えていますが、自分がどういう立場であるか、何をしなければならないかを判らせるまでに至っていないのかもしれません。小さい子の躾でも一度言ったから良いというのではなく、繰り返し教える、噛み砕いて教える、そういうことが要求されている時代だと思います。
村田:最近私は英国の知人が書いた論文を日本語に翻訳しましたが、そのタイトルが“悪い生徒がいるのではなく、足りない指導者がいるだけだ”というもので、私はショックを受けました。指導(力)不足の観点から自分を省みると垂範・注意指導不足が思い当る。何故指導者の質が衰えたのでしょうか。
菅野:私は警察官の不祥事が増えたとは思いません。率から言えば少ない方で、数万人を擁する組織であれば何人か変な人も出てきます。それはどんな組織でも同じでしょう。但し個人主義など社会の変化に応じて指導者も変わるべきだということはあると思います。今は指導者が尊重されない時代。人は教わる必要が無いと考えられ、「指導」という仕事・労働を行っていると考えられている。偉い人はいるし、上下関係も当然あるが、権威を認めない風潮があります。あとは権威が自己主張(威張る)するしかないと思います。当然批判されることもあるでしょうがそれは権威なら当たり前です。
村田:「指導者は威張れ」という提案についてどう思いますか。
佐藤:剣道では結果がすぐに出るので威張っても仕方が無い。若い学生と対等に当たったら力では敵わないが、年齢の差、経験の差から来る見識などに指導者として尊敬の念を持ってくれているのかなと思います。その意味で指導者は信頼される人間性の養成に努めなければならないと思います。
村田:今の話で、弟子が自分より強くなってきた時の気持ちはどうですか。
岩田:私は過去の実績や行動様式で導いています。私は自分から威張れない性格で、人格識見から現在の立場に置かれ、生徒や周囲の者もその関係で従い指導を受けてくれているのかなあと思います。県柔連理事長の職にあるため、高校や少年の大会にも関わることが多いのですが、そういう時、指導者には、競技力向上のみでなく試合でも稽古でも柔道の特性を考え、徳育を磨くことが周囲の信頼を得ることに繋がりますと訴えるようにしています。
村田:基調講演で惻隠の心が強者において芽生えると理解しましたが、それほどでもない指導者は、その心をどのように養えばよいのでしょうか。
菅野:その前に、私の「威張れ」が誤解されているので正したいと思います。実績を積んだ強い者がただ弱い者を叩くのは「威張る」でなく、「苛め」。私は、“自分より劣った弟子をとった覚えはない”と「威張る」んです。何か優れた見どころがあるからとったんだ、そんなに弱い筈が無いと「威張る」。プロ野球監督は、必ずしも名選手とは限りませんが、それでも選手は付いて行く。こいつらは全員俺より凄いと「威張る」。微妙なことだと思いますが、千変万化そういう指導もあるのではないでしょうか。さてお尋ねの惻隠の心について、強ければ優しく優しければ強いという裏表の関係ですが、強さはやはり、稽古を積む、身体鍛練などを通じて得られるでしょう。惻隠の心を養うには、武士の場合も芸術に親しむ必要があったわけですが、それだけだとお公家さんになってしまう。稽古だけやってきた者と最後に違いを分けるのは、芸術にも親しんできた者。道の花一輪摘んで髪に差すその美的センス、それがどうして身に付くか。例えば子供が警察官に好感を抱くのは、ただ強いからではなく、交番の花に水をやる、習字するなどの姿を見てそこに惻隠の心を感じるからです。従って、その意味で人は皆、文武両道です。
ここで、村田氏は、フロア(観覧者)からの意見を求め、最前列に座っていた26歳の男子を指名した。
彼は、学生時代に始めた少林寺拳法を6年間続けているといい、講演を聞き、強さと優しさの関係の中でキャパシティ(容量)のある者が強くなれると思ったと感想を述べた。
更に氏が意見を求めると、宮崎大の女子学生が挙手をして村田氏に、悪い生徒がいるのではなく、足りない指導者がいるだけという話に関連して、「指導者が生徒に求めていることは何か」と質問した。
村田氏は、平素意識している訳ではないが、一人ひとりその子がその子として持っている可能性を十全に開花させ成長してくれることを願って指導していると回答した。
次に年配の剣道関係者が自ら挙手をし、多忙な教師に心の教育ができるか、少ない教師で対応できるのか佐藤氏に質問した。
佐藤:文部科学省か、県教委でなければ答えられない質問で、確かに指導者の数は少なく、時間も短いが、実技を通して教えて欲しい心がある。個人的になるが、現実に教えたいのは武道の三徳即ち正義、礼、廉恥である。「正義」を尊ぶ、基本に則った、自然な理に叶った美しい技を学ぶ、「礼」は礼法と心を尊び学ぶ、「廉恥」は自己規制、恥ずべきことを知る、この中には「謙譲」ということも含まれ、自分の技能はまだまだだと結果に増長することを抑制する。教師は皆公務が忙しいだろうが、このようなことを教えて欲しいと期待する。補佐的な人材として、社会体育指導者が、教員免許は持たないが技術、知識、見識、人間性とも遜色ない人々が揃っているので活用して欲しい。やがて本当に技術を持った指導者が、現場に揃うだろう。
最後に、やはり年配の柔道関係者が、柔道を通じて伝えるのは技か心か、高校以降柔道を続ける子が少ない現状、オリンピック種目になり国際化してから勝負に拘る指導者の方が父兄の支持を得やすい傾向、道徳と簡単にいうが一旦断たれた伝統の再興は容易ではない等々思いのたけを語った。
纏めとして村田氏は、本会を総括して「現況を憂うる内容で終始したが、落胆することなく、今日得た成果を基に我が国が惻隠の心に満たされるよう各人で追求したい。最後まで真剣な態度で臨んで戴き有難うございました。」
※原典資料(クリックするとPDFファイルにて閲覧出来ます)、参加者アンケート集計結果(次項以降)
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